2016年12月25日

#クリスマス終了のお知らせ

糸井さんが #クリスマス終了のお知らせ について書いていた。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 今日のダーリン http://www.1101.com/home.html
・若いとき、いつぐらいまでだったかなぁ。
 クリスマスイブは、ほんとうにいやだった。

 そういう気持ちは、日本中の、
 かなりたくさんの人たちが持っているはずなのだけれど、
 「苦しいほどさみしい」とか感じている当人にとっては、
 じぶん以外ほとんどの人のことが、幸せに見えてしまう。
 ふだんの日には、あんまり感じてなかった
 「じぶんのさみしさ」というやつが、
 他人たちみんなの幸せそうな明るさによって、
 格別に暗く重く目立ちはじめるわけだ。
 
 人の心持ちが明るく見えるだけではなく、
 街も道も、音楽も、すべてが明るく騒がしい。
 「じぶんのさみしさ」は、どこにもいられない。
 こんな、クリスマスなんてものがなければ、
 こんなにさみしくならなかったのに。
 というようなことを思う。
 幸せそうに見える人びとのことも、
 どこかで無理をしているにちがいないと想像する。
 こんな日があったから、その日のための演技をしている。
 そして、空から星が降ってくるかのように、
 じぶんのさみしさを溶かしてくれるような人が、
 ここに来てくれないものかと虚空に向かって願う。

 いつのまにか、その「さみしさ」は、
 クリスマスのせいではなくて、
 あらゆる人間が根源的に持っているものだと知る。

 その「さみしさ」と面と向かわざるをえない日が、
 たまに、たとえばクリスマスイブの夜にある。
 そんなことを知るようになる、じょじょにだけれど。
 そして、明るくまぶしく見えていた人びとのことが、
 そういうものでもないんだ、と知ることにもなる。
 
 じぶんが、たくさんの「さみしさ」を持っていると、
 あきらめるように知ってしまってからが、
 大人としての日々なんだろうと思う。
 クリスマスを憎んだことのある人は、幸いである。
 そのときに見つけた「じぶんのさみしさ」こそが、
 すべての素敵なものを入れる宝箱なのだと思うから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
若くもないはずなのに、なにを書いているんだ、おれは。

クリスマスは寂しくなる。
それを感じるようになったのは、思春期を迎えた頃だろうか。
子供の頃はただ無尽蔵に受け取る側だったから感じなかった。
それがいつの間にか寂しいと感じるようになる。
だからこそ 「#クリスマス終了のお知らせ」 のようなタグが付けられる。
みんながそう思っている。

「みんな」 というのは、リア充も含めたすべての人だ。
ついつい、「リア充は楽しんでいて自分は恵まれていない」と思ってしまうが、
多分そうではない。
みんなが寂しく感じていて、その後の行動が違うだけだ。
寂しいのを解決しようとして、
人と集まって盛り上がれば寂しくなくなるはずだ、と一生懸命もがいているのがリア充なんだ。
不幸アピールをして共感を集めようとする人もいるし、
クリスマス反対のイベントで楽しむ人もいる。
全ての人のスタート地点には寂しさがある。

糸井さんの話は、ここから1歩進んだ立ち位置の話なんだ。
「寂しい」 のが自分だけではなく 「みんな」 なんだと気づいて、
「自分」 が 「寂しい」 ことの解決を諦めたうえで、
「みんな」 の 「寂しい」 を解決しようとする。
それが 「大人」 の立ち位置。

そして、それこそが、寂しさを解消する唯一の道なんだよ。




drecom_fdd32 at 15:27コメント(0)トラックバック(0)考察  

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